last updated 1997/06/25
第41話(全130話)
マスター、マリカを救う(2/3)
ピートはゆっくりと、マリカのほうに顔を向けた。グリフォンの背中を泉の水で洗ってやっ
ている可憐なお姫さま。その光景は一枚の絵のように美しかった。この世のものとも思えない
、清らかな雰囲気に包まれていた。いや、これこそが「この世のもの」「テオのもの」の光景
なんだ。有り得ざる幻想の世界はいまは「地球」と呼ばれていた世界のほうであって、決して
ここではない。
マリカが「もうそろそろ出発しましょう」と言おうとしていた。その声が発せられる瞬間、
ピートの(マスターの)耳が場違いな物音を聞き取った。
キュイン。
と聞こえた。
何の音だか声だかピートには判断がつかない。しかし続けて起こった「ピキィィィ」という
音の正体はわかる。悲鳴だ。何かが声を限りに叫んでる。叫びが泉の静寂を引き裂いた。
「来て!」
マスターへと言うなり、マリカは叫び声のほうへと駆け出して行く。ワーターの背を体操選
手のように体を回転させて飛び越えて、着地と同時に全速力で走るその姿は、いかに日ごろか
ら有事に備えて鍛え抜いていたかを伺わせる。思わずそんなマリカの敏捷さに見惚れてしまい
そうになりながら、ピートも慌てて立ち上がる。ヨタヨタガシャンガシャンとこちらははなは
だ鈍臭い音を響かせながらマスターも走る。
叫びはさっきホタテ貝みたいな昆虫が飛んでいた茂みのほうから聞こえていた。マスターは
茂みの向こうへ走り込んだマリカを追って、ガシャンドシャンの音もやかましく蛇腹の腕を伸
ばして茂みをかけ分け、その向こうへとずん胴の体を押し込んだ。
茂みの向こうにイルカがいた。
イルカだとピートは思った。海ではない森の中で、尾鰭を何者かに食いつかれ、必死に空へ
と逃げようとするイルカというのが、存在し得るものだとすれば、やはりそれはイルカのよう
に見えた。
森に浮かび、必死に鳥のように大きな鰭をバタバタさせているイルカに、ピートは瞬間棒立
ちになってしまう。
「マスター、早くこっちへ来て! 手を貸してッ」
マリカが必死に怒鳴っている。見ると、彼女はイルカとその尾鰭をパックリくわえている何
者かを懸命に引き離そうとしているようだ。敏捷で身軽、といってもやはり女の子だから腕力
はないのだろう。ここは自分が手伝わなければならない。ピートはそう思った。何しろいまの
彼にはどんなものだって持ち上げられそうな小型ウィンチといった感じの腕があるのだから。
ピートはマスターの体を走らせ、暴れるイルカを回り込んでマリカの横に立った。そして三
本指のパワー・フィンガーでイルカにくらいついているちいさな肉食獣の口をつかみ、その顎
を力任せにこじ開けさせた。どうやらこのちいさな肉食獣はたったいま卵から孵ったばかりの
ようだ。まだ体毛も羊液で濡れているし。目もほとんど開いていない。それでも牙は鋭く、鼻
先にはちいさな角も生えていた。
「ドラテロだわ。この子、トラテロの赤ちゃんよ」
マリカが言う。
ピートは柱となって家を支えていた自分を、尻尾でへし折って森に消えた、あの巨大な肉食
獣の姿を思い出した。あの獣にはドラテロという名前があったんだ。そしてこれは、ドラテロ
の巣・・。
マリカが慌てているのは当然だ。赤ん坊が生まれたばかりの巣なら、いつあのドラテロが戻
ってくるかわからない、恐らく赤ん坊の声を聞き付けて、いま猛然と木々をへし折りながらこ
こへ駆け戻ってきている最中だろう。そう思い、ピートはマスターの腕にさらに力をこめる。
小さいながらも狂暴さは変わらないようで赤ちゃんドラテロは逃がすものかとイルカの尾鰭を
くわえて離さない。それでも押したり引いたりしているうちに、ようやく赤ちゃんも根負けし
て、顎の力を抜いた。同時に空飛ぶイルカは宙へと逃れ、泉のほうへひとっ飛びに茂みを飛び
越えて行く。
「マスター、あたしたちも早く逃げるのよッ」
マリカが叫んだ。ピートは卵のかけらを踏み付け、そのヌルリとした羊液に足をとられて無
様にひっくり返った。茂みを飛び越えようとしていたマリカが気づいて駆け戻るのと、近くの
大木が押し倒され、その向こうからドラテロが雄叫びをあげながら突進してくるのとが同時だ
った。
マリカとドラテロは至近距離で対峙した。マリカの動きが止まる。ドラテロもまたストップ
モーションのように体を静止させる。両者は緊迫した目でお互いを睨み付けながら相手の力量
を探り合った。
「マスター、逃げなさい」
マリカが命じる。ドラテロの目がチラリと生まれたばかりの赤ん坊のほうへと向けられる。
わが子の無事を確かめて、ドラテロは猛然とマリカへと突進を再開する。その足が大地を蹴る
のと同時に、マリカもまた地面を蹴った。垂直に飛んだマリカの足の下を、ドラテロの鋭い角
がブンッと風を切り裂いて走り抜ける。
ピートはあたふたと茂みの向こう側へと転がるように逃げて行く。怒れるドラテロの突進を
まともにくらってもマスターの装甲はまったく動じなかったろうが、ピートはマスターの体を
利点を忘れていた。それを知っていたなら、ピートはマリカに代わってドラテロとの戦いを引
き受けたろう。けれど、か弱い運動神経ゼロの少年は、敏捷で鍛え抜いた体を持つ少女にこの
場を託してスタコラ逃げ出したのだった。
マリカのほうはマスターが加勢してくれることになど、はじめから期待していなかった。ど
んな場合でもロボットは戦いに加わろうとしない。主義に反する、とマスターはいつも言って
いる。ロボットは他の生物を傷つけてはならないのです。だからどうしても戦いたいのなら、
好きに戦いなさい。もし姫がわたしの背中に隠れるのでしたら、その時は喜んでわたしは姫の
盾となりましょう。しかし盾になるだけです。ほかにいっさいの加勢はいたしません。いつも
マスターはそう言っていた。そしていま、マスターはこの時ばかりは以前からのマスターと同
じように、戦いの場からスゴスゴと出て行き、茂みの向こうからこちらを静観している。
マリカは巣を荒らされたことに激昂しているドラテロの攻撃を、なんとか躱しながら、どの
ようにしてこの場を収めるべきか考えていた。腰の剣を抜いてドラテロの首に突き刺すのなら
、それはたやすい。けれど、巣を守り、子供を守ることだけを考えて突進してくるドラテロを
殺めることはマリカには出来ない。どんな生き物でも自分の巣が荒らされているとなれば、必
死に侵入者を撃退するものだ。当然のことをしているだけなのに、それを理由にしてドラテロ
を斬ることはマリカにはできない。
(つづく)
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